『言葉ははかない』がうまれるまで 00

内藤順司 SPITZ写真集『言葉ははかない』メイキングストーリー

『言葉ははかない』が生まれるまでの物語やスピッツへの熱い想いを、フォトグラファー内藤順司氏に語っていただきました。

写真集の中から抜粋した写真と未発表の写真を交えて、全28回お届けしてゆきます。いろんなお話しをうかがいましたよ。どんな話が飛び出すか、お楽しみに。

インタビュー・構成 春名尚子

 

*このメイキングストーリーは、2012年5月5日〜6月28日
内藤順司 SPITZ写真集『言葉ははかない』Facebookページにて連載したものを
加筆再構成したものです。

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☆内藤さんとスピッツの出会いのきっかけは?

スピッツをはじめて撮影したのは、デビューアルバム「ヒバリのこころ」のプロモーションビデオの撮影ですね。

会った瞬間は、素朴な学生さんって感じ。その彼らが一生懸命音楽をやっていて、ファッションとか佇まいがね、スタジオのセットの雰囲気も相まって、なんだか懐かしい感じのするバンドだと思いましたね。

だけどね、今までの音楽とは明らかに違う、ものすごい可能性を感じたんだ。正直、とてもすぐ売れるとは思えなかった。だけど、遠くの遠くに光が見えたんだよな。その感覚は今でも鮮烈に覚えてる。

☆写真集本文で言うと2ブロック目ですね。デザイン優先なのでページ数もブロック表示もないから、表現が難しいですが「1991-1995」の部分ですね。

そうそう。写真集の中身は、省けるものはすべて省いて、本当に写真だけにしたからね。俺にとってスピッツはライヴバンドだから。ライヴのきらめきを1枚でも多く見てもらいたいと思ったんだよね。

☆当時は、内藤さんはどのようなアーティストを撮影していたんですか?

1980年からフォトグラファーとしての活動をはじめて、いろんなアーティストを撮ってきましたよね。

当初は新譜ジャーナルという音楽雑誌での撮影をしてきたから、その時代時代のアーティストはほとんど撮ってきたんじゃないかな。

それから本当に惚れ込める音楽を集中して撮っていこうと、浜田省吾、小山卓治、SION、佐野元春、スターダストレビュー、尾崎豊、レベッカ、ザ・ストリート・スライダース、ザ・ブルーハーツなどを撮影してきましたね。

 

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☆写真集を作ろうと思ったきっかけは?

スピッツは2011年でメジャーデビュー20周年を迎えた。でも、それで写真集を作ろうと思ったわけじゃないんだよね。それならさ、もう去年作って出してるよね。

今年は21年目で中途半端でしょ。アニバーサリーな企画モノを作ろうと思ったわけじゃないんだ。

SPITZ JAMBOREE TOUR 2010 5月のある日、ライヴを撮影していて、彼らの堂々たるロックに強く胸を打たれたんだ。

「ああ、スピッツがまた進化したんだ」と、確信した。

これまでのツアーはアルバムを発表して、それからツアーがはじまっていたんです。今回はそうじゃなくて、新曲をまずライヴで聞いてもらうという、スピッツにとってはじめての挑戦だった。

とても新鮮だったんだよね。ライヴではじめて聴く楽曲が6曲くらいあってさ。ほんと毎回、感動してた。

☆内藤さんはスピッツを撮りながら、口ずさみながら、時に涙を流していますよね。

(笑)スピッツメンバーは、俺より8歳年下なんだけどね。俺は本当に彼らを尊敬している。オフステージは、まったく普通なんだけど(笑)ステージに立つと煌めくんだよね。

マサムネのまつげ!かわいいなあとか、田村くんのくちびるいいなあとか、サキちゃんの腕!とか、テッちゃんのギターセクシーだなあとか、キュンキュンしながらシャッターを押してるよ。

そして、音はキラキラで太いロックを奏でている。ベースもギターもドラムも声も、詩もサウンドもすべてが尊敬できる存在。想いをよせるだけで心が躍りだしちゃうよね。

そしてね・・・スピッツサウンドに包まれてて、急に“きゅん”となって意味もなく涙があふれるんだよね。こころが喜んでる感じで・・・。

だからどの曲でということではないの・・・いつも不意になの。ただ確率的に“きゅん”となる楽曲はある・・・

☆その曲の名は?

はずかしいから教えなーい。

 

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☆写真集の企画は、どのように進んでいったんですか?

2010年6月くらいに、まずはスピッツの事務所グラスホッパーを訪ねてさ、デビュー当時からのマネージャーで今は代表の坂口さん、俺はグッチャンと呼んでますけど、グッチャンに相談しに行った。時間を取ってもらって、正式に事務所に話しをしにいったんだよ。

俺は、その年3月にスーダンの写真集を出したんだよね。各地で写真展や講演をしてたの。出版記念パーティにグッチャンが来てくれて、すごく喜んでくれ た。普通、挨拶してちょっとしたら帰るでしょ。でもさ、夜中までずっといてくれて、飲んでいろんな話しをしてさ。スピッツの現場とは、また違うグッチャン がいて。すごくうれしかったな。

☆スピッツのデビュー以来、事務所の坂口社長とも一緒に旅をしてきましたね。

そう。だから、まずはグッチャンにね、話をしようと思った。スピッツの事務所に行って「写真集を作りたいんです」と言うと「いいですよ」って即答。

「へ?」って、なるでしょ、こっちは。まずは事務所の許可を得て、メンバーの許可を得て、中身を作って、それからまた何度も確認してもらって、許可を出してもらって、そうやって作るものだと思ってるからさ。

「内藤さんが決めたならそれでオッケーですよ。内容に関してメンバーと相談する段階じゃないでしょ。中身は改めて相談しましょう。スーダンの写真集も感動しました。内藤さんが決意されたんなら大丈夫です」というようなことを言ってくれた。

写真家として尊重してくれている雰囲気が伝わってきて、本当にうれしかった。その信頼に本気で応えなければならないと思ったら、余計に熱が入ったよ。

実は、途中で何度も放り出そうと思ったり、放置していた時期もあったんだけど、グッチャンが「内藤さんの作品集にしましょうよ。内藤さんが考えて、ストーリーを作る、それが素敵だと思う」と言ってくれたことも、制作の大きな支えになったね。

 

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☆内藤さんの写真からは、スピッツへの愛情がにじみ出ていますね。

好きじゃなければ、仕事なんて一緒にできないから。愛が冷めちゃったら、別れるしかない。惚れ込めなければ写真なんて撮れない。だから、彼らの写真を撮ってこられたことに感謝しているんだ。

彼らを追いかけて、ただ一緒に走ってきたから、後ろを見たりしてなかった。気がついたら20年撮ってたって感じ。

でも、スピッツが新しいところに進んでいったことを感じて、これまでを振り返ってみたら、スピッツの大事な歴史がいろんなところに散らばってしまったままになってる気がしたんだ。

やっぱりね、彼らがここまでがんばってきたこと、それを全部まとめて作品にして、本人たちにプレゼントしたいって思ったんだよね。
「がんばってきたよな、いろんなところでやってきたよな」って。「本当にいいバンドになったなあ」と心から思った。そんなことは男同士だから普段は照れくさくて言葉にはしないけど。

☆「作りたい」が「作る」となって、いよいよはじまったわけですね。

とにかく、俺が見てきたスピッツをメンバーにプレゼントしたい。まずは4冊。そして、チームスピッツのみんな。彼らのために作りたいと思ったんだ。

もちろん、オーディエンスのことも考えたよ。ライヴを観て、アルバムを買って、彼らをずっと見守ってきたオーディエンスがいなければ、俺らはここにいな いから。だけど、わがままでごめんね。俺、告白しちゃう。スピッツにプレゼントするための写真集を作りたいって思ったんだ。スピッツ目線で、彼らへの恩返 しのような作品をね。

☆内藤さんの目に映るスピッツ。瞬間、瞬間をシャッターで切り取ってきて、長い年月が積み重なっていて、そこにはさまざまなスピッツが存在していましたね。

写真集を作る過程で、写真の選び方、ストーリーの組み立て方、デザイン、そのひとつひとつでまったく違うものになっていくでしょ。オーディエンスが感じているスピッツと、俺が感じているのはまったく違うスピッツかも知れないっていうことを思ってた。

俺は、パンクでロックでものすごくカッコいいスピッツをファインダーを通して見続けてきた。でもさ、それはみんなが見たい写真じゃないかも知れないじゃ ない。オフショットのかわいい写真とかさ、メンバーのアップの写真とかさ、そういうのを求めてる人もいると思うんだよね。

だから、まったく受け入れてもらえないかも知れないなとは思った。でも、その半面で、スピッツを愛してる人たちなら、俺から見たスピッツのことも受け入れてくれるかなと、勝手に思ってた。

 

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☆スピッツと出会った頃の時代背景

プロのカメラマンとしてスタートしたのは1980年。若い人は想像しづらいかも知れないけれど、音楽の世界も今と昔では全然違っていたんだ。昔は歌うの は歌手、曲を作るのは作曲家、詞を書くのは作詞家、演奏するのは演奏家という風潮でね、自分で作って歌っている人はメジャーではあまりいなかったんだよ ね。

俺が撮影活動を始めた当時は、シンガーソングライターが出始めて、やっと10年くらい経った頃だった。俺自身も雑誌でのあらゆるアーティストの撮影を経 て、誰かが作った歌じゃなくて、自分で考えて、自分の想いを、自分の言葉や音で伝えていくアーティストを撮りたいと強く思ってた。

フォーク、ニューミュージックの時代から、8ビート、ロック・・・ そういう音楽が町にあふれはじめた。やがて、バブルで音楽ビジネスも規模が大きくなって、バンドブームが起きて、いろんな才能が世に出てきたね。

音楽家ということに囚われない、アーティスティックな才能を持つ人々の音楽も脚光を浴びるようになった。時代の変わり目を、俺もカメラを持って音楽とともに過ごしてたんだよね。

90年代になって、それまでとはまた明らかに違う、懐かしいけど新しい輝きと可能性を持ったアーティストに出逢った。それが、俺にとってのスピッツなんだよね。

 

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☆21年前のことになりますが、スピッツと出会った頃はどういう印象でしたか?

出会った当初のスピッツはね・・・

ものすごい可能性を感じた。なにか懐かしい感じのする、しかし明らかに新しい音楽感性っていうのが第一印象。今までの音楽とは明らかに違う独特な魅力があったんだよね。

彼らはありとあらゆる時代の音楽を聴いてきたのだと思う。それが彼らの中で育まれて、彼らのフィルターを通して、これまでとは違うまったく新しい音になっていた。とても進化したバンドという感じだった。

正直なことを言うとね、とてもすぐ受け入れられるとは思えなかった。当時は、それほどは演奏もうまくなかったし、まだまだ今から行くって感じだった。だけど、ライヴの時、遠くの遠くに光が見えたんだよな。その感覚は今でも鮮烈に覚えてる。

スピッツとは、出会ってからずっと一緒に旅をしてきた感覚があるよ。うちの長男もスピッツのメジャーデビューの年に生まれたんだよね。だから変な話しだ けど息子とスピッツと、俺自身も一緒に成長してきたという感じがある。そして一緒に20歳になった。彼らも40代になって、それでもなおかつ音楽的に進化 しつづけているのがすごいよね。

俺自身も20代はひたすら走ってきて、30代になって、自分の暮らしを考えはじめた頃だった。無駄な物は削ぎ落としていこうと、本当に自分の好きなアー ティストだけを撮っていこうと思っていた。それで、今まで経験したことのない新しい挑戦として田舎に引っ越そうと思ったんだよね。

☆時期的にはMini Album「オーロラになれなかった人のために」と、ちょうど重なりますね。

まったく同時だった。彼らが「田舎の生活」を発表した時、俺は1年かけて土地を切りひらいて、田舎にうちを建てていたんだ。あの歌は「さよなら」だけど、俺にとっては「こんにちは」だった。

一番鶏の歌で目覚めて、縁側に子どもたちがいた。長男が1歳半になった頃だなあ。俺自身も新しい視野や感覚を大きく受け入れていった時期なんだよね。

 

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☆出版社は、どういう経緯で決まったのですか?

写真集を創りたいという最初の気持ちが、メンバーへのプレゼントだからさ、少部数を印刷してメンバーとスタッフに配るって考えも、正直あったんだよね。

あとは、スピッツのグッズとしてツアーパンフレットみたいに創ることも可能性としてはあるよね。でも、絶対に出版社から出したいと思った。

書店での発売となると、幅が広がるよね。もちろんこれまで支えてきてくれたオーディエンスの人たちが買ってくれるのがほとんどだろうけど、もっと幅広い人に届くといいなと思ったんだ。

スピッツの写真集なんだけど、俺は彼らの姿を通じて日本や世界の音楽そのものを表現したいと思った。スピッツを深く知らない人が見ても、まあ感動はしないかも知れないけど、感動できるような作品を創ることができたらいいなと思ったし、そうしようと思ったよ。

☆最初から「主婦の友社」からの出版を考えていたのですか?

実は、最初は違う出版社に話を持っていったんだよね。4社くらい持っていって、編集の人と話して。ああ、これでは自分が創りたいものが創れないなと思ったところもあった。

ある出版社と話しが進んでいって、何度も打合せをして、10月くらいには事務所にもあいさつに行って、決まりそうだったんだけどさ。

やっぱりノルマがあってね、何万部販売するためには、こういう企画を入れましょう、ああいう企画を入れましょうってことになってきたんだ。

☆その企画は、どういう内容だったんですか?

笑・・・ 言うの?

あのさ、マンガのスピッツ物語を入れようとかさ、遊園地に行って撮影しようとか・・・。

俺はキャラクターグッズや雑誌を創りたいわけじゃなくて、彼らの成長してゆく姿や、やってきたことを表現して、俺が見てきた彼らの姿をまとめたいから写真集を創るのにさ。販売部数を確保するために、おもしろ企画が必要だって言われて。

写真集をたくさん買ってもらうためだと言われても、それらを撮る意味もそれを写真集に載せる意味も感じなかった。

だったら俺の写真じゃなくていいじゃん?って思ったから「そういうのが創りたかったら、事務所を紹介しますので事務所とやってください」って、丁寧にお断りしました。

それで、グッチャンに「ごめん!」って謝りに行って、もう1回出版社を探し始めたんだ。

*本日の写真は、内藤順司 SPITZ写真集『言葉ははかない』では使用されていない未公開写真です。

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☆出版を予定していた会社を断った後、次に白羽の矢が立ったのが・・・

長い付き合いの編集者がいてね。その編集者の佐々木君にさ、これまでの経緯を話して「他社で出そうと思って企画を進めていた」とすべてを告白して「ス ピッツの写真集を創ろうと思ってるんだけど、つきあってくれない?」と聞いたら、またこれ即決で「いいよ」って言われて(笑) そこから「主婦の友社」さ んとのお付き合いがはじまったんだよね。

佐々木君とは、知り合って15年くらいかな。当時、俺がコンビを組んでいた音楽ライターがプロレスが好きで、プロレス本を創るときに呼ばれて、写真を撮った。それで「主婦の友社」から、数冊出したんだ。

☆「主婦の友社」からプロレス本ですか?

そうそう。佐々木君は変わってるんだよ。俺の写真集「もうひとつのスーダン」の時もさ、社名が“主婦の友”だよ、主婦の人たちがプロレスとかスーダンとか、写真見てくれるのかなとは思ったよね。

でも「もうひとつのスーダン」が社内でも好評だったらしくて、それもあって今回の話しはスムーズに進んだらしい。音楽系の出版社じゃない「主婦の友社」 からスピッツの写真集が出るっていうのも、不思議な感じだけど。でもスピッツのオーディエンスも彼らと一緒に成長して、今は子育て世代が多いから、大丈夫 かな・・と。

出版話がまとまっていって、2月に事務所に伺ってグッチャンと佐々木君が対面して、いよいよ写真集制作は次の段階に入る予定だったんだ。

 

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☆スピッツと出逢ったのが1991年。
撮影を続けてゆく中で、内藤さん自身の生き方や考え方も変化しつづけていますよね。

そう。俺自身が撮影活動をはじめた20代前半は、みんなが何かを変えようとしていた時代だった。その中にどっぷりいたけれど10年経った時、もう一歩先 へ進みたいと思ったんだ。ビジネス化していく音楽界の中にいて、音楽写真を続けることの意味を俺なりに考えていた時期だね。

転機の時にはさ、いろんなことが奇跡のように起こるんだよ。スピッツと出逢った時期が、ちょうど俺自身のライフスタイルも変化する時期だった。都会から引っ越して「田舎の生活」のような暮らしをはじめて、貯金は0円だったけどキラキラ楽しかったなあ。

自然のまっただ中にいたから、すべてが新鮮だった。山を切りひらいて家を建てたんだ。水道も来ていない場所だから、水の確保からだよ。地下70メートルくらいから地下水を掘り上げた。

その最初の水で風呂に入った時にね、その水がこれまで見ていた水とはまったく違うものに思えたんだよね。それまでは蛇口をひねれば当たり前に出てきた水だったけど、水って本当はこんなに大切なものだったんだと、その時にはじめて知ったね。

だから「青い車」の詩が、ものすごくリアルに響いてきた。

ハーブもいろんなものを育ててたね。乙女心が芽生えたのは、その時代かもね(笑) 俺はさ、モミジが好きなんだ。春になるとさ、それまでは何もなかった 枝から芽が出てくるでしょ、赤ちゃんの手みたいに。それを見て“きゅーん”となってた。マサムネ君は天才的な目線や感受性を持ってるけどさ、俺はいたって 普通。ただ“きゅーん”(笑)