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☆ 2月に「主婦の友社」からの出版が決まり、写真集の製作がいよいよはじまり、そして迎えた3月ですね。

スピッツのツアー”とげまる2011″も3月27日埼玉県の三郷からはじまる予定だったけれど、311の震災が起きた。あれで、すべては停止しましたね。

☆震災当時はどこにいましたか?

自宅の2階にいて、家が倒れてしまうかと思ったほど揺れたよ。自宅はかなり被害を受けました。揺れが収まって外に出ると、近所の人たちがパニックになっ ててね。俺って、そういう時はなんだか冷静になっちゃうんだ。それで近所の方をなだめていたね。実は、ハイジャックに遭遇したことがあって。その時も隣の 方がパニック状態だったので、ずっとお話をしてましたね。

機体が揺れて急降下して、民家の洗濯物に届きそうなくらいだった。「あと2秒で墜落する」と覚悟をした。次の瞬間に急上昇をはじめて無事に空港に戻るこ とができたんだけれど、機長の方が亡くなられて、自分の生が誰かの犠牲や誰かの支えによって成り立っていることを、ものすごくリアルに感じたんだよね。 かっこいい言い方をすることを許してもらえば、一度死を覚悟したからには残りの人生は捧げてもいいと思った。そこからアフリカやカンボジアでの活動をはじ めたんだよね。もちろん、捧げてばっかりじゃないですけどね。

震災当日は、近所の人たちと助け合って作業をして、夕方になってやっと家に戻った。テレビを点けたら津波の映像が流れていた。それを見た時に、川原尚行 医師から連絡があるだろうなと漠然と思っていたんだ。アフリカのスーダンでの医療活動を続けている川原医師が、その時どこにいるかは知らなかったんだけ ど、俺が被災地に訪れるなら彼と一緒に行動するだろうなと思っていた。

☆スタートしたばかりの写真集の制作については、どう感じていました?

当時はそれどころではなかったね。目の前で起きていることにさえ、まったく対応できてないし。本当に何が起きているのか、何をすればいいのかわからなかった。でも俺に何ができるかわからなくても、被災地に行くんだろうなと思っていました。あくまで、カメラを持ってね。

 

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☆内藤さんは、震災直後に被災地に入って活動をはじめていますよね。

震災翌日の3月12日、川原医師と連絡が取れたときには、彼はもう被災地に向かっていました。私もすぐに合流して、14日甚大な津波被害を受けた仙台空港近くの名取市に入りました。

川原医師はすぐに医療活動をはじめて、俺自身も毎日たくさんの人の話を聞いたよ。被災された方々は、みなさんご自分の話を聞かせてくれるんだよね。

俺も電気のない真っ暗な中にいて、一週間以上寝袋で寝起きしていた。ふとした瞬間に、感情とは別に涙が止まらなくなるんだよ。ただ、涙が流れていく。そういう時は、小さな丘に1人昇って涙を流してた。

スピッツのスタッフの中にも地元出身の人がいる。俺が現地にいると言うと、すぐに大量の物資を持って駆けつけてくれたスタッフもいてさ、本当にうれしかった。

「こんな大変な時に音楽なんて何の役にも立たない」と言う人もいるし、音楽をすることの意味すら考え込んでしまうミュージシャンもたくさんいたと思うよ。電気を思い切り使って照明を点けてライヴやるなんて不謹慎だとか・・・

だけど、被災地にいる俺の魂の中で音楽は鳴り響いていたし、それが俺を支える力そのものだった。光り輝くもの、胸に響く音は、人に生きる勇気を与える力として絶対に必要なんだよ。本当にそう思った。

4月13日のNHKホールで、照明に照らされたスピッツがステージで演奏をしているのを見てさ、涙が止まらなかった。俺の中の光がやっと灯った感じだったね。同じ想いで彼らを待っていたオーディエンスは、たくさんいるのだと思いますよ。

写真集とは関係のなさそうな話しだけど、俺にとっては無関係ではないんだ。

光り輝く音楽をやりつづけてきたスピッツの軌跡を、今こそ届けたいと本当に思ったんだ。それが俺に今できることの、大切なひとつだと。

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☆スピッツのツアーが再開して、それからはツアーに同行していたのですか?

ツアーに同行しながらも、震災のことを追いかけつづけた。地震と津波だけじゃなくて、今回は放射能のことがあるから。これから先、どういう風に生きてゆ けばいいのか、みんなはどういう想いを抱えて生きているのかを知りたくて、被災地に残る人、避難する人、葛藤する人々を取材して歩いていたんだ。

震災直後、子どもを連れて東京から九州に避難した女性に、その取材の一環で会いに行った。

☆偶然の再会でしたね。

(笑)子どもを守るための発信をインターネットでしてる人がいて、どういう想いで九州にいるんだろうと連絡を取ってみたら、昔からの仕事仲間の春名さんだったという。

俺が被災地での活動をしていると言うと、すぐ「行きます」と言いだして、津波被災地に同行してもらったんだ。春名さんは施術家で身体とこころを整えるプ ロだから、施術したり話しをしていると、会う人会う人が涙を流して、最後にはすっごい笑顔になってる。川原医師とは、またアプローチの仕方が違うけれど、 俺はこれからの時代には両方必要だと思ったんだよね。

一緒に被災地を旅して、メシを食って、震災以降の価値観を共有した。ふと思ったんだよね。一緒に組んだら、新しい視点が加わって、すごく素敵なものが出 来るんじゃないかって。ずっとスピッツを見てきた人だし、クリエイティブに関しては本気で俺と意見を言い合える人間だしさ。それでプロジェクトディレク ションを担当してもらうことになった。

☆田舎で自給自足生活をはじめるつもりで、それまでの仕事は全部やめたんです。内藤さんとスピッツの写真集じゃなければお断りしてました。今回お手伝いできて、一生分の幸せをいただきましたよ。本当にありがとうございます。

あのさ、手伝うって謙虚に言ってるけど、実際は俺のケツをさんざん叩いたよね。鬼のように。
「で、内藤さん。いつからはじめるんですか?写真は揃ったんですか? 写真集出さないんですか?」とか、毎回聞かれて叱られて、仕事となるとほんっとに厳しくて怖いからさ。しゃーないから動きはじめた(笑)みんなもそういう一生モノの仲間、作ったほうがいいよ。

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☆スピッツのメンバーに写真集を創ることをお話しされたのはいつ頃ですか?

本人達に話したのは、ツアーの途中かな。5月くらいに改めて編集者の佐々木君と一緒に楽屋に行って、メンバーに発表したよ。メンバーはすでに知ってたのかも知れないけど「すっげーじゃん! 内藤さんがやるの? いつ出すの?」って感じで喜んでくれたね。

☆実際には9月から作業がスタートするわけですが、写真はその時に事務所からお借りしたんですか?

いや・・・ 実はさ、第一便は2月にアトリエに来てたんだよね・・・ あいつらと震災も一緒に過ごしたんだよ(笑)

その段ボールの山を目の前にして、1回だけちょこっとガムテープを開けてみた。で、閉じた(笑)

☆なぜ、閉じる(笑)

「あ、まだだめだ・・・」って。

これを最初っから1人でやる気にはならなくてさ。だって開けてしまうってことはさ、スピッツの20年と俺の20年と向き合って、もう一回旅に出るってことだからさ。写真集を創ると決意したものの、封印を開けられずに、そのまま半年置いてあったよね。

夏イベントでスピッツと回っていたんだけど、仙台か大阪でテッちゃんに「ねえねえ写真集ってどうなった?」って言われて、ちょっとちっちゃい声になっちゃって「うん、がんばってるところ・・・」って。

「どんな感じになるの?」

「わかんない・・・ でも・・・俺次第」

「いつ出るの?」

「・・・俺次第・・・」みたいな。

とにかく20年をまとめるってことは決めたけどさ、震災を経たこともあって、まだ俺の中で明確なイメージが掴めてなくて。でも、やらなきゃ、やらなきゃとは思ってたんだ。

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☆実際に作業がはじまったのは9月後半。内藤さんはダンボールの山から目を背けて座り込んでましたね。

今回の写真集は20年分でしょ。自分でも覚えてないようなことがある。スーダンの写真集の時は、4年通って写真を撮って、その間雑誌に掲載したり、写真 展をしているので、その時々30枚ずつくらい発表できるレベルに仕上げるんだよ。それが積み重なっていた。最後の1枚が撮れたときに「できた!」という手 応えがあった。スーダンの写真集は、創ろうと思ったときには中身はほぼ完成していたんだよね。

スピッツはね、最初の頃は鮮明に覚えてるけど、12年前とか10年前とかはもうおぼろげになってたね。それをどのように思い出して、どこを切り口にするかが、漠然としすぎでわからない。その前に、俺にとってはダンボールの山だから。

☆いやいや、宝の山です。

撮った本人からしたら、ただのダンボールにしか見えないよね(笑)その箱をボーッと見るしかない。何ごとも熟成期間が必要なんだよ。

☆で、箱を開けられない、と。そのままでは制作がはじめられないので、僭越ながらダンボールの山を崩して、ガムテープをはがしました。

「封を開けますよ、いいですね」とディレクターの春名が言うので「あ、そう? じゃあお願いしようかな、悪いね」とか言いながら、俺は違うことしてたな・・・

☆1箱開けたら、内藤さんはプシュ!とビール開けてました。

やっぱりさ、20年をまとめるには力がいるよ。俺、いい加減だし。

まずは年代順に並べて、撮影リストと照らし合わせて、全部が揃ってるかを確認したんだよね。それで、箱の中にないフィルムのリストを作った。ディレクターが。(笑) 俺はビール飲みながら「がんばれー」って言ってた。

俺さ、途中で数えてみてびっくりしたんだけど、50万カットあるんだよね。どう計算しても・・・ 途中からはデジタルとフィルムと両方撮ってたし。まずやらなきゃならないのは、50万カットを見るって作業なんだよね。気が遠くなるほどの膨大な量だよ。

写真の捜索は事務所代表のグッチャンが中心になってやってくれたんだ。スピッツデータブックを作ったときには、彼が写真選びをしたから。何がどこにあるのかを一番把握してたんだよね。

で、そのグッチャンが言うんだよ。

「内藤さん、いまから20年分はしんどいですよ」って・・・

*内藤順司 SPITZ写真集『言葉ははかない』では使用されていない未公開写真です。

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☆写真のピックアップ作業が始まって、ひたすら写真と向き合っていましたね。

9月にダンボールを開けて、10月11月とコンコンと整理していた。3月の出版を目標にすると、スケジュール的には超ギリギリで、立ち止まることはできないんだよね。

だけどさ、作業に集中しながらも、いろんなことを考えてしまうんだ。被災地のこととか、放射能のこととか、いろんなこと。家に籠もってこんな作業をやってる場合じゃなくて、俺は被災地に行ってやれることをやるべきなんじゃないかと、ずっと葛藤していた。

「スピッツの音楽を心の支えに生きている人は、きっと日本中にいます。被災した方や避難した方はもちろんですが、311で傷ついていない人はいません。内 藤さんが撮りつづけた写真を喜んでくれる人がいるのなら、恩返しができるのは今じゃないですか? 写真集を待っている人は必ずいますよ」と言ってくれた人 がいた。

☆20年を越えて演奏しつづけるライヴバンドの軌跡を、50万カットにおよぶ写真の中から選び出す。それは祈りにも似た行為でしたね。

うん。本当にそうだった。

そして、11月18日三郷市文化会館でのライヴを撮影していた時に、ある一枚が撮れたんだ。その写真が撮れたことで、俺の中で写真集の製作が本格的に動き始めた。

今はデジタルカメラを使っているから、撮影しながら写真を確認するんだけれどね。それを見た瞬間「写真集のトップはこれなんだっ!!」と確信した。

同じ時期に新曲を聞いて、彼らの明確なメッセージを受け取った。やっぱり俺は、スピッツのメンバーに背中を押されて、それで前に進んでいけるんだよな。

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☆写真のピックアップ作業がスタートして、次はデザインの段階に入りました。この構想が生まれたときから、デザインを担当して欲しい方は決まっていたそうですね。

そうなんだ。写真集を創ろうって決めたとき、デザイナーも決まってた。彼しかいないんだよ、一緒にこの写真集を創ってくれる人は。コヤマさんは、日本のデザイナーのなかで唯一、俺の写真を自由に操れる人。

他のデザイナーは気を遣っているのか、遠慮しているのか、ある一定のラインから踏み込んでこないんだよね。でも、コヤマさんは俺の写真と思いっきり向き 合って、俺の写真を傷つけもするし汚しもする。俺の写真の魅力を最大限に引き出して、その上でコヤマさんの世界を表現してくれる。

コヤマさんは、長年、佐野元春や小山卓治をはじめとするミュージシャンのダイナミックなデザインを手がけてきた人で、もう15年以上のつきあいになる。もちろん、本人には形が整ってから話しをしたけれどね。

☆コヤマさんはすごい人ですね。あの壮絶なタイムスケジュールを前に、めげなかった。投げなかった。絶対に「無理です」と言いませんでしたね。

3月20日発売を死守するために、普通ではありえないタイトなスケジュールになってしまったんだ。いろんな大変なことが山積みだったのに、最後までやり遂げてくれた。俺はそれを思い出すだけで、泣いちゃう。

コヤマさんの感性とのやりとりは、本当に楽しかった。彼はスイッチが入ったら、とんでもない力を出す人なんだよね。だけどスイッチが入らないと、全然ダメ。笑 だから、スイッチが入るまでは、こっちから攻め、あっちから攻め。

この件を打診するまで、スピッツをちゃんと聴いたことがなかったと思うんだ。でも、彼のロック感性にスピッツが響くことはわかっていたから、ライヴに足を運んでもらって、楽曲を聴いてもらって、写真を見てもらった。

スイッチが入ったら、誰もコヤマさんを止めることはできない。デザイナーとしては、決して器用じゃないけど、俺はそういう彼と彼のデザインが好きなんだ。彼の本気を引き出すことができたら、この写真集はどこまでも飛べると知っていた。

その結果?

手にしてくれた人なら、きっとわかってくれると思う。

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☆コヤマさんがデザインを担当してくださることが決定し、写真のピックアップ作業も進み、少しずつ形が見えはじめたのが11月頃でしたね。

『言葉ははかない』は、最終的には写真だけの作品になったんだけど、当初はいろんなアイデアがあったんだよね。歌詞を掲載しようとか、対談をしようとか、CDを付けようとか。

11月の頭、ディレクターの春名さんと選んだ歌詞を眺めたり、写真集の構成案を考えてた。写真集のタイトルを決めなければならない時期だったけど、いくつかの案はあるもののどれもピンとは来てなくてさ。それも懸案事項の1つだったんだ。

ピックアップした歌詞をまとめて見ていたときに、あらためて彼らのメッセージの強さに胸を打たれたんだよね。紙に書かれた文字なのに、音が聞こえてくる。全アルバム、全シングルのすべての曲から選抜された歌詞が並んでいるのを見たときには圧巻だった。

その中から、ぽんと立ち上がってきた。『言葉ははかない』って。

☆全身が総毛立ちました。「やっと出てきた!」って感触でしたよ。この作品のタイトルは、それ以外にはありえないと思いましたね。

「猫になりたい」は、ずっとこころの底で鳴っている音楽なんだ。

『言葉ははかない』というタイトルが降りてきたとき、写真以外はなにもいらないんじゃないかと思った。写真だけで、彼らの歴史と対峙していこうと思った。

結果的には選抜していた歌詞を使うことはなかったけれど、その作業のおかげでタイトルがやってきた。この写真集と向き合った時間は、どれも無駄じゃなかったんだよね。それって、人生そのものみたいじゃない?

それからは『言葉ははかない』という、ただひとつのメッセージに導かれるようにすべてが決まっていった。すべてをそぎ落として、本当に写真と向き合うことができたんだ。

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☆20年という長い歳月、スピッツを撮り続けてきた理由というのはありますか?

スピッツは、進化しつづけているんだ。アルバムを聴いて、ツアーに同行して、新しい歌が魂の中に入ってくるでしょ。その度に、やっぱり天才って思う。彼らは音楽を通じて、本当にいろんなことを教えてくれた。1つの音楽を聴いているという領域を超えているんだよね。

マサムネくんの詩や声の世界だけじゃなくて、﨑ちゃんのシンバルの音、スネアの音、田村君のベースライン、テッちゃんのギターのリフやタッチだったり。全部が相まってなんだよね。数え切れないほどのライヴを見てきたけどね、それでも“きゅんきゅん”くる。

スピッツの音の世界に包まれていると、細胞が活性化されるんだ。全身が喜んでる感じでさ。ギターとベースとドラムと声とキーボードだけで、こんな世界が描けるんだなと思うと、音楽って本当に素晴らしいと感じるし魔法だなと思う。

俺は、彼らの音楽があったからフォトグラファーを続けてこられたと思ってる。1つの時代が終わるとき、その時代の音楽は終焉を迎える。それが音楽の宿命 だと思ってた。でもさ、彼らは違ったんだ。それこそが、彼らが提示し続けている“進化”そのものなんだよね。俺にとってスピッツは、時代や時間という概念 を超える音楽なんだ。

そんな音楽に出会えたことに誇りを持っているし、感謝もしているし、まだまだ旅を続けていきたいと思ってる。そこまで惚れられる音楽に出会えた俺は本当に幸せなんだよな。

褒めすぎた?

 

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☆写真を選抜し終えて、バトンはデザイナーのコヤマさんへと。上がってきたデザインをはじめて見たとき、どういう印象を受けましたか?

「やっぱりコヤマさんだよな!」と思った。俺が思っていた通りにロックでパンクでカッコいいスピッツがそこにいた。30枚程度を最初に創ってもらったんだけどさ、とても手応えを感じたよ。でも、同時に「ここまでやっちゃっていいのかな?」とも思った。

正直なことを言うとさ、不安も抱きはじめたのね。俺の見てきたスピッツ、俺の愛するスピッツを表現することができたとして、それをみんなが受け入れて、 許してくれるのだろうかと。俺にとっての自信作も、事務所が受け入れてくれなければ、もうそこで終わりになってしまうでしょ。

スピッツの事務所の代表グッチャンやマネージャーの伊勢さんに、まずはこの方向性で大丈夫なのかを確認してもらわなければならない。2011年12月 19日仙台ライヴの楽屋で、デザイン確認の時間をいただいて「まずはとにかく見て欲しい」と、何も説明をしないで見てもらったんだ。

B4サイズに印刷したものを半折りして、バッと開いたら田村君のジャンプ。 一枚目から、いきなり飛んでる。笑 マサムネくんのギターのコラージュ。こ れまでのスピッツのヴィジュアルではありえない写真が並んでる。そのラフを持ってきている時点で、2人がどう感じるか、何を言うんだろうかって、俺はもう ドキドキしていたよ。

「タイトルは『言葉ははかない』にしたいんだ」そう言ったら、ふっとグッチャンの表情が変わって。その瞬間に「あ、通じたね」と思った。どういう意図で通じたのかは定かじゃないけどさ、俺は勝手に以心伝心と思った。「それでOKです」と、ニコッとしてくれた。

「アリですよ。いいですよ」とグッチャンが言ってくれた。俺はドキドキしながら聞いたよ。「この中でNGはないの?」「いや大丈夫です」「このコラージュは大丈夫なの?」そこで改めて「アリです」と。

「この写真集は内藤さんの作品だから、内藤さんが思うように創ってください」
その言葉をいただいて、結果的に今まで発表することのなかった多くの写真も使うことができた。

コヤマさんは自由自在に大暴れして、思いっきりデザインしてくれた。それを受け入れてくれたGrasshopperは、とても度量が大きい。俺は、彼らにはいつも、ありがとうしか言葉がない。